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プロフィール
きべいち
きべいち
1964年(昭和39年)11月7日沼津生まれ
沼津市立第四小学校卒、
目黒区立第十中学校卒、
巣鴨高校卒、
慶應大学卒、
航空会社勤務を経て会社経営、

趣味は自転車、ダーツ、音楽・・・
沼津市在住
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2011年02月10日

大相撲の八百長問題について

大変長らくブログを留守にしていた。
久しぶりに書いてもなかなか人の目に触れないのも分かっていて、ブログに書くことに決めた。

少し前からtwitterを始めたら、僕の性分ではブログよりtwitterの方が考えを気軽に出し易かった。
ブログだと書くということになり、書く前にコンセプトを固めないと書き始めることが出来なかった。
だから書きたいと思っても、コンセプトをまとめようとしている間に時間が経ち、よっぽど気になることしか書けなかった。
ということからすると、今回も気になることなのだ。
結果的にtwitterでは対応できないから、書かざると得ないということですね。

さて、標題の「大相撲の八百長問題」について・・・

単純な問題ではない。いくつか整理したい。
まず、「プロスポーツ」ということ。
それだけで二つ問題が含まれる。「プロ」とは何か?「スポーツ」とは何か?ということである。

「八百長」と言われるモラルの問題。

他には「大相撲」の文化としての側面。

もっと深い問題として、日本の社会性の問題。



ざっと挙げただけで5つの問題が含まれる。

僕の考え・・・

「スポーツ」に報酬が伴う場合、通常それを資格の問題はともかくとしてそれを「プロ」と呼んでいる。
その時点でそのプレーヤーは「見られる」し「魅せ」なければならない。
それからすると、意図を持って勝負の流れを演出することは、あっても良いと思う。
それをその業界全体で意図を持って作り出すのも然り。
結果として見る側は満足すれば、興行は成立。つまりその「プロスポーツ」は成立する。
その成立した中で勝負によって収入が変わるならば、勝負に貢献したものとして敗者への金銭の配当は当然あって自然だろう。

「見る」ということに関しては、「見られる対象(ここでは相撲)」の客観性には依存してはいないのだ。常に「見る」側の主観においてしてか成り立たないのだから、感動するのだ。そこを分からないから「見られる対象」を批判するのだが、それは主客が転倒している。

大相撲の文化としての側面を考えた場合、神事から始まっている。つまり前述した「プロスポーツ」の興行としてではなく、意図的にストーリーが組み立てられやすい土壌がある。とすると歴史性と近代的な興行性によって、勝敗が意図的に仕組まれ易いということである。


全く違った側面から今回の現象を考えたい。
今回の大相撲バッシングを捉えると日本の社会の病理にも思える部分がある。

今現在、今回の勝敗の意図的な操作とそれに伴う金銭の授受を、マスコミもそろって「八百長」として批判をした。
事の真偽や善悪の価値判断もされない段階でである。
結果的にこれがその業界に渡る慣習だったとすると、事の真偽と善悪が決まらない段階でこれだけバッシングをすると、矢面に立った当事者のみの処分で終わる。結果としてその慣習は残る。つまりとかげの尻尾きりで終わる。
むしろこのような問題が起こった場合は、事の真偽や善悪を綜合的に判断してからでないと、マスコミのアジテーションにより当事者だけを悪者に祭り上げ、結果的に何も変わらないということになる。それこそ一番の不公平ではないか?イジメに等しい。

この土壌は、結果的にもっと大きな問題になって来る。今回のケースもその可能性が高いが、意図的にリークして他に重要な問題を覆い隠す手段として使われるということである。つまり、一業界の問題にしか過ぎない当事者達は、二重に祭り上げられ、大きな被害者になる。

どなたか意見を求む。
  


Posted by きべいち at 06:34Comments(0)